新一グループ株式会社 代表取締役 福原稔さんインタビュー

「東戸塚に住んでいて良かった」 そう思えるような街にしていきたい。新一グループ株式会社の取り組みとは/新一グループ株式会社 代表取締役 福原稔さん


1980(昭和55)年に開業したJR横須賀線の「東戸塚」駅周辺は、かつては「線路沿いの農地」だった地域だが、開発により現在では横浜市内でも屈指の人気を誇る住宅地に成長した。その開発はしばしば、「民間活力によって生まれた街」とも形容されるが、実際に、故・福原政二郎という一人の実業家の情熱によって、街の礎が作られてきた。今回は父である福原政二郎氏の理念を引き継いで精力的に活躍しておられる、新一グループ株式会社代表取締役、福原稔氏にお話を伺った。

福原政二郎氏が指揮を執った開発への道

開発の指揮を執る福原氏(中央)
開発の指揮を執る福原氏(中央)

はじまりは昭和30年代ごろです。私の父が、東戸塚の開発をするということでこの街に来まして、「東戸塚に新しい駅を作る」ということをまず第一の目的にして、開発に着手しました。最初は信濃中央(地区)から区画整備を始めようとしたんですが、反対もあったそうで、先に秋葉や名瀬など、周りから開発が進められることになったそうです。

開業当時の「東戸塚」駅
開業当時の「東戸塚」駅

地元で農業を昔からやっていた人は、駅はできてほしいけれど、開発ということに対してはやっぱり不安だったんでしょうね。だから当時は反対に回る人が多かったようです。でも、しっかりと説明をして納得して頂き、今はそういう方もビルのオーナーさんになっていて、開発をして良かったと言ってくれています。

「陸の孤島」と呼ばれていた東戸塚

緑あふれる開発地域
緑あふれる開発地域

開発前、この周辺エリアはほとんどが農地と山でした。農地があって、その間に谷戸があって、周りは山。バスも1日に何本かしか無く、地主さん以外は住んでいないような場所で、横浜市でありながら、「陸の孤島」とも言われていました。私はその頃小学生で、六角橋に住んでいたのですが、この辺りには夏休みに来て、カブトムシを捕ったりして、よく山で遊んでいましたね。そんな場所でしたよ。

バブル崩壊の影響で難航したまちづくり

「オーロラシティ」
「オーロラシティ」

現在、東戸塚のシンボルとなっている「オーロラシティ」は1999(平成11)年の開業で、この街の中では新しいほうの施設ですね。もともとは、もっと早いスピードで開発が進む予定だったのですが、ちょうどバブルの時期とぶつかってしまったので、開発がかなり遅れました。これに拍車をかけたのが、環状2号線の開通の遅れですね。オーロラシティには西武百貨店が入る予定があり、百貨店というのはかなり広範囲からお客さんを呼ばないと成り立たないですから、車で来るお客さんが重要で、結局環状2号線の開通に合わせて、予定よりもだいぶ遅れてのオープンになりました。

開発計画
開発計画

上品濃地区などは、もともと企業の研究所用地としての開発をしていました。企業の研究所を作るという話もありましたが、バブルが弾けてしまって研究所どころではなくなってしまったので、研究所用地を住宅用に変更できるように地区計画の変更なども行って、そこから新しい住宅の開発を始めて、ようやく、上品濃の開発が完成しました。

“民間活力による開発”が街の発展へと繋がる

西口のビル
西口のビル

開発の内容については、住宅地を中心とした地区計画へとシフトしていきました。駅西口側のビルも、もともとはオフィスだけが入る予定だったのですが、時代のニーズに合わせて地区計画から根本的に変更し、10階以上をマンションにできるように変えました。時代の変化に応じて、そういう風に地区計画を変えていくことで、ニーズに合った環境が提供できるんですね。

「東戸塚」駅 東口
「東戸塚」駅 東口

将来的にはさらに人口が増えていくと思われますので、次の開発をやる時には、50年後100年後を見据えた開発が必要になってくると思います。今までもそうだったように、民間で協力をしながら進めてきた”民間活力による開発”を今後も続けていきたいと思っています。

2つの街づくり推進協議会で常に客観的な視点を

「東戸塚」駅 東口ロータリー
「東戸塚」駅 東口ロータリー

東戸塚には、街づくり推進協議会が2つありますが、もちろんそれぞれに役割があります。ひとつが「東戸塚駅周辺街づくり開発委員会」というものですが、これは東口のことです。東口にはもともと地区計画や細かい規定が無いもので、それに代わる街づくりの決まりごと、たとえば壁面後退などについて、決まりを守って建築をしてもらおうということで、この委員会ができています。建築確認を取る前に一度申請を出してもらって、認可を出しているというのがこちらです。

「東戸塚」駅西口
「東戸塚」駅西口

一方、西口側のエリアにはもともと地区計画があるんですが、それによって縛りがある地域なんです。ですので、もうひとつの「東戸塚西地区街づくり協議会」では、そこの地権者さんに集まっていただいて、先ほど言ったように、時代が変わった時にこの用途だと良くないね、といったことがあれば再検討をしていく、そういった団体になっています。

※「ヤマダ電機テックランド東戸塚店」は2016年2月に閉店いたしました

コミュニティFMラジオもインフラのひとつ

「エフエム戸塚」
「エフエム戸塚」

実は、コミュニティFMラジオ局の「エフエム戸塚」もこの街のインフラのひとつなんです。本来は、災害時に緊急放送をするための放送局です。私が代表をしていますが、協議会の人たちが発起人となり、戸塚区の方々に株をもってもらって、戸塚区の放送局として、ずっと残っていってくれればと思います。

目標は新陳代謝が進む街

「東戸塚開発記念碑」
「東戸塚開発記念碑」

将来的には「コンパクトシティ」を作ろうという話はしています。開発が一段落した段階で、何が足りないのかということを考えて、それを今後の開発の中で取り入れていく、ということが進んでいくと思います。

東戸塚周辺を俯瞰する
東戸塚周辺を俯瞰する

一例ですが、例えば東戸塚には映画館が無いので、今後そういった話も進むかと思いますが、こういった施設は早くに作りすぎてもいけないんですよ。経営が成り立たないんです。これくらい街が成熟してきたら経営が成り立つ、というタイミングがあります。だからそういった施設を、今後は造っていくことになると思います。
この街も年数で言えば30歳代になって、ようやく落ち着いてきましたから、これから50歳100歳になった時に若々しくいられるためには何が必要か、ということを考えていきたいですね。

あとは、この街の中で新陳代謝が進む仕組みも作っていきたいですね。駅近くの便利な場所には、団塊の世代の方が30年ぐらい前に購入したマンションが多いわけですけれど、今はそういった方々も現役を引退して、今後は介護付き住宅のようなものも必要になってくるでしょう。駅前に暮らしてきた方が新しいタイプの住宅に移動して、若い世代の方は駅前中古物件を買うことができる、そういった風に街の中でうまく循環するような街づくりをしていかないといけないと思っています。そのためにも「東戸塚に住んでいて良かった」と思える街にして、また同じ街に住んでくれるようにしないといけないですね。

バランスの良い街で充実した暮らしを

東戸塚再開発地域の駅前広場
東戸塚再開発地域の駅前広場

やっぱり、子育て世代の人たちには非常にいい街だと思いますよ。緑は多いですし、横浜市全体では子どもの数が減っていますけれど、東戸塚だけは子どもが増えているという状態です。街に住む人の世代バランスも良いですね。開発が遅れたということが、逆に非常にいい傾向に結びついているんです。一度に開発が進んでしまうと、みんな一斉に年をとってしまいますけれど、東戸塚は開発が遅れたことで、いろんな世代がじわじわと増えてきました。

そういった意味では、若い方からお年寄りまでいろいろな世代が暮らしていて、生まれた時から老後まで、過ごしやすい街にできているのかと思います。これからは「コンパクトシティ」の完成を目指して、わざわざほかの街に行く必要が無いくらい「東戸塚は何でもあるよね」という街にしたいですね。みんなで一緒になって東戸塚をもっといい街にしていきたいです。

 

今回お話を聞いた人

新一グループ株式会社
代表取締役 福原稔氏
http://www.shin1.co.jp/
※この情報は2014(平成26)年12月の取材を基に作成した記事です。