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漁業盛んな町から羽田空港滑走路へ。そして、新たなイノベーションを起こす街へと変換した大田区羽田空港1・2丁目エリア

大田区羽田から環八通りの穴守橋を渡った対岸側、「天空橋」駅を中心とした大田区羽田空港1・2丁目エリア。ここにはかつて沖合移転前の「羽田空港」があった。移転後は長らく広大な更地が広がるエリアとなっていたが、近年、大田区と民間事業者が連携しながら新たなまちづくりを実施している。

羽田空港
羽田空港

淡水と海水とが混じり合う豊かな海を有する羽田は、かつて漁業が盛んだった。江戸時代には新鮮な魚介類を徳川家にも献上していたほどである。1931(昭和6)年、現在の「天空橋」駅の辺りに「羽田空港」が民間専用飛行場「東京飛行場(現在の羽田空港)」を開港し埋め立てが進んだ。

1936(昭和11)年頃の羽田周辺(出典:国土地理院)
1936(昭和11)年頃の羽田周辺(出典:国土地理院)

「羽田空港」は、旅客や貨物輸送の増加により滑走路を広げ、日本の中心飛行場へと成長したが、戦時中には海軍航空隊の練習生訓練用となり、1945(昭和20)年に終戦を迎えると米太平洋陸軍総司令部(GHQ)に接収された。このとき、周辺に住んでいた約3千人は48時間以内の強制退去を命じられたという。当時ここには川崎大師と張り合うほどに有名な「穴守稲荷神社」が鎮座していた。門前は温泉旅館などで賑わい、現在の京浜急行電鉄の電車も海老取川を渡って神社まで延伸したほどだ。しかし強制撤去の命で神社も現在の場所へと移転。今はその大鳥居が「天空橋」駅の南、島の南西端に残っている。なお、江戸末期にはこの「穴守稲荷神社」と「川崎大師」を多くの参拝者が行き交っており、多摩川を渡る「羽田の渡し」が運航されていた。「羽田の渡し」は1939(昭和14)年に大師橋の開通により廃止となった。

空から見る羽田穴守 1936(昭和11)年(左)・1947(昭和22)年(右) (国土地理院所蔵の地図をベースに一部を加工)
空から見る羽田穴守 1936(昭和11)年(左)・1947(昭和22)年(右) (国土地理院所蔵の地図をベースに一部を加工)
羽田の渡し
羽田の渡し

1952(昭和27)年に空港の大部分が日本に返還された後、「東京国際空港」として重要な役割を果たすようになった。その後も需要はさらに伸び続け、羽田空港も拡張とともに騒音問題の解決を行うため廃棄物処理場を有効活用して沖合に移転させることに。滑走路の建設や移設、第1旅客ターミナル「ビッグバード」と第2旅客ターミナルの建設、モノレール延伸などが行われ、騒音問題で叶わなかった空港の24時間運用も実現して羽田空港は国内線の基幹空港となった。

羽田空港(東京国際空港)
羽田空港(東京国際空港)

この沖合への移転により開港当時の滑走路があった場所は空地となり、急ピッチで開発が進んでいる。開発地域は3つのゾーンに分けられているが、特に「天空橋」駅周辺は、現在の国際拠点空港である羽田空港に隣接しつつも、高度なものづくり技術を有する中小企業等が集積する京浜臨海部。海外からの来訪者が増加することから、世界と地域をつなげるゲートウェイとして、ヒト・モノ・情報を呼び込み、新産業の創造と日本のものづくり技術や各地域の魅力発信する「新産業創造・発信拠点」の形成を目指している。

羽田空港周辺の開発について
羽田空港周辺の開発について

2020(令和2)年7月3日にはまち開きをし、「天空橋」駅前の交通広場が開放され、駅に直結する大規模複合施設「HANEDA INNOVATION CITY(羽田イノベーションシティ)」もオープン。ここには「先端モビリティ」「健康医療」「ロボティクス」など未来の暮らしをつくる“先端”企業が集まっており、「伝統」「観光」「食」「温泉」「音楽・映像・演劇」「芸術」という“文化”を体験できる施設が揃う。国内外の人が集まり、滞在し、回遊する。地域住民も憩いの場所として集まり、新たな賑わいの場となっていくことが期待されている。

漁業盛んな町から羽田空港滑走路へ。そして、新たなイノベーションを起こす街へと変換した大田区羽田空港1・2丁目エリア
所在地:東京都大田区羽田空港1-1 

大田区のitot



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