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歴史を訪ねる

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■加賀藩下屋敷に由来する地名、加賀

板橋区加賀エリアの地名は、かつて加賀藩の下屋敷があったことに由来する。「板橋区立金沢小学校」などにみられる金沢という名称も、当時の加賀藩、現在の石川県の金沢がルーツだ。加賀藩下屋敷は約21万坪と江戸の大名屋敷の中でも最大級の広さを誇り、現在の加賀一丁目のほぼ全域に加え、加賀二丁目と板橋三丁目、板橋四丁目の大半にまで及んでいたという。

この下屋敷内には、築山や滝などが配された回遊式の大名庭園もあった。この築山の一部を利用して整備されたのが現在の「加賀公園」で、山頂から見る石神井川の流れに往時の面影を感じることができる。

■中山道の宿場町としても栄えた板橋

板橋区加賀一丁目の西側には中山道最初の宿場が設けられ、宿場町としても発展した。この板橋宿は、品川宿や千住宿、内藤新宿と並ぶ江戸四宿のひとつで、通常の宿場の機能に加えて歓楽街としての機能も持ち、江戸の市民の行楽の場としても人気を集めていたという。

板橋宿は、現在の「板橋本町商店街」あたりにあった上宿、今の「仲宿商店街」を中心とする仲宿、板橋三丁目周辺に広がっていた平尾宿に分かれ、上宿と仲宿の間に流れる石神井川には板橋という橋が架けられていた。この橋の名が板橋という地名の由来だ。今も旧中山道沿いには道標などが残っており、宿場町の風情を感じられる場所が残る。

■かつての大名屋敷が文教施設、医療施設に

幕末になると加賀藩下屋敷では、屋敷内を流れる石神井川の水流を利用して大砲の製造が行われた。明治維新後は、加賀藩下屋敷の跡地が火薬製造の場として利用され、やがて陸軍の関連施設になった。終戦後、陸軍施設は利用されなくなり、跡地には教育施設や研究所、医療機関が多数進出することになる。その周辺にはマンションや一戸建てなどの住宅も増え、閑静な住宅地も形成された。

加賀一丁目エリアでは、下屋敷から国有地という歴史の歩みが乱開発を防ぎ、土地区画が大きく環境のよい住宅地の基盤になったといえよう。

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