銀座エリアまで直通3分。佃煮、もんじゃ焼きとご当地グルメでも知られる中央区佃エリア
東京都中央区はその名の通り、東京23区のほぼ中央に位置する。面積は台東区に次いで2番目に小さいが、銀座や日本橋など日本を代表するショッピングタウンを擁し、海外からの観光客でもにぎわう。その中でも中央区の南、隅田川沿いに位置する中央区佃は、“月島もんじゃ”で有名な月島エリア内にあり、昔ながらの街並みが残る閑静な佇まいが魅力の街だ。
佃煮が名物の漁村から、日本の造船業の中心地へ
かつて、佃エリアは隅田川の河口にあたり、石川島という島があった。この島の名は旗本であった石川八左衛門重次が屋敷を構えていたことに由来する。江戸時代の初め、徳川家康は摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民を呼び寄せ、石川島付近の砂洲を埋め立て、暮らすようになった。この付近は彼らの故郷にちなんで、佃島と呼ばれるようになる。佃島の漁民は小魚や貝を塩や醤油で煮詰めて保存食にしていたと言われている。やがてこの保存食は江戸の庶民に販売されるようになり、「佃煮」として佃島の名物となる。現在も佃エリアには佃煮の老舗が営業を続けている。
1853(嘉永6)年、江戸幕府は水戸藩に石川島に造船所を開設することを命じ、西洋式の軍艦の建造拠点となった。明治維新後、この造船所は民間に払い下げられ「石川島造船所」となり、1979(昭和54)年に閉鎖されるまで日本の造船業の中心地としての役割を果たしていた。
明治時代の埋め立てで誕生した月島
明治時代になると、東京湾の埋め立てが進められるようになる。佃エリアの南に広がる月島エリアも1892(明治25)年の「東京湾澪浚計画」に基づき、東京湾を浚渫した土砂を使って造られた埋め立て地だ。地名はもともと築島と呼ばれていたものが、表記が変わり月島となったと言われている。
月島エリア周辺の駄菓子店では古くから「もんじゃ焼き」が提供されており、子どものおやつとして人気を集めていた。1980年代から月島のもんじゃ焼きが広く知られるようになり、多くのもんじゃ焼き店が登場するように。今も月島エリアの「西仲通り商店街」は「もんじゃ焼きストリート」と呼ばれるほどもんじゃ焼き店が並び、国内外の観光客や地元客でにぎわっている。
地下鉄開通をきっかけに交通アクセス性が向上
1988(昭和63)年に営団地下鉄有楽町線(現・東京メトロ有楽町線)の「新富町」駅から「新木場」駅間が開通し、「月島」駅も開業した。これにより佃エリアや月島エリアから銀座・日本橋などの都心部へのアクセスが飛躍的に向上(「銀座一丁目」駅まで直通3分、「有楽町」駅まで直通5分)。高層タワーマンションの開発が相次ぎ、“暮らす街”としても成長を遂げる。
2000(平成12)年には都営地下鉄大江戸線が「月島」駅に乗り入れるようになり、「汐留」駅や「六本木」駅、「新宿」駅方面へのアクセスも便利になった。現在も佃エリアや月島エリアは新旧の街並みが交わる、職住近接の暮らしを実現できるエリアとして注目されている。