長い歴史を持ち、著名人や文化人に愛された邸宅街、大田区山王
大田区は東京23区の南部に位置し、都心に近いことから古くからベットタウンとして発展した。JR京浜東北線「大森」駅の西に広がる山王も大正時代から邸宅街として人気を集めたエリアだ。
大正時代から邸宅街として発展
現在の「大森」駅を挟んで東側は低地、西側は高台となっており、古くは高台から海が見渡せたという。山王は江戸時代から景勝地として知られ、「八景坂」の上部にあった「鎧掛松」を広重が描いた浮世絵も残されている。明治時代には料亭・庭園の「八景園」や「望翠楼ホテル」なども誕生、観光地として賑わったという。
富裕層の住宅地、別荘地としても注目され、現在の山王周辺では1916(大正5)年から1922(大正11)年にかけて耕地整理が行われ、1922(大正11)年には「八景園」跡地が住宅地として分譲されるなど、住宅地の開発が進められてきた。
こうした新たな住宅地には第23代内閣総理大臣を務めた清浦奎吾をはじめ、会社の社長や重役、子爵などが暮らし、当時から日本有数の邸宅街としての地位を確立している。関東大震災後は郊外への移住が盛んになり、山王はさらに発展。馬込方面へと住宅地の開発が拡大していく。
現在も評論家、徳富蘇峰の居宅跡である「蘇峰公園(山王草堂記念館)」、作家の尾﨑士郎の居宅の一部を再現した「尾﨑士郎記念館」、元「日本コロムビア」社長の三保幹太郎が建てた私邸であった「東芝会館」など当時の面影を感じられるスポットが残る。
文学者や芸術家に愛され「馬込文士村」へ
山王の西、馬込周辺には文学者や芸術家が多く暮らすようになり、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになった。1923(大正12)年作家の尾崎士郎は当時の妻であった宇野千代とともに馬込周辺に移住してきた。
尾崎士郎は知り合いの文学者や芸術家に馬込の良さを熱弁し、海に近く雑木林など緑も豊かであったことから、実際に多くの文学者や芸術家が移り住んできた。馬込に移り住んだ文学者や芸術家はさらに知り合いの文学者や芸術家を呼び寄せ、「馬込文士村」には数多くの文学者や芸術家が暮らすようになったという。
「馬込文士村」に暮らした文学者や芸術家は北原白秋、萩原朔太郎、三好達治、川端康成、室生犀星、山本有三、山本周五郎と当時の日本を代表する文学者や芸術家で、彼らは日々交流を深めていたという。現在、「大森」駅前には「馬込文士村」のレリーフがあり、彼らの息吹を感じることができる。
「第一種低層住宅地」ならではの快適な住環境
現在も山王周辺は邸宅街として人気が高い。山王周辺は「第一種低層住宅地」に指定されているエリアが多く、建物の高さは10~12mに制限されているため高層ビルやマンションが建築しづらく、日当たりのいい住環境が保持される。
「第一種低層住宅地」では建ぺい率、容積率、日影制限などにも制限がある。建ぺい率の制限によって建物が密集しないこと、一定以上の規模のショッピング施設が建てられないことから、今後も住宅中心の閑静な住環境も守られることになる。
また、山王周辺は標高20m前後の高台にあり、地盤が安定している。形成された年代が古く、固結した地盤のため地震が起きた場合でも揺れが増幅されにくい。例えば、地震の際の揺れやすさを示す表層地盤増幅率は山王一丁目で1.7、「大森」駅の東側は2.3となっており、山王一丁目の揺れにくさが示されている。
古くから邸宅街としての歴史を持ち、文学者や芸術家にも愛された山王。ここには現在も邸宅街ならではの暮らしやすさがある。