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歴史コラム

武家屋敷に始まる歴史と文化の街、市谷加賀町エリアを歩く

東京都心に近いことから防衛省や警視庁などの庁舎があり、一方で、江戸情緒を残すおしゃれな街並みが人気の神楽坂も近い、市谷加賀町エリア。

古くから国政にかかわる施設も歴史にまつわる施設も多いこのエリアには「加賀」の名がついている。「加賀町」とは、江戸幕府が始まった頃に、「加賀百万石」として知られる加賀藩の第3代藩主・前田光高の正室で、水戸藩主・徳川頼房の娘であった大姫の屋敷があったことにちなむもの。徳川御三家から百万石の御家に嫁いだ姫君の御屋敷の周囲には、他の大名も広い敷地を持つ屋敷を構え、一帯は武家屋敷街が形成されていた。

歌川広重が1840(天保11)年頃に描いた『牛込神楽坂之図』
歌川広重が1840(天保11)年頃に描いた『牛込神楽坂之図』

「山の手銀座」と呼ばれた坂の街

神楽坂の歴史は、武家屋敷街が形成されるよりさらに古い。江戸幕府の初代将軍、徳川家康が江戸へ入府する前から町屋があり、町が形成されていたが、江戸時代に入って坂の周辺に武家屋敷や「毘沙門天 善國寺」などの寺社が建てられ、寺の縁日などが開かれるようになったことをきっかけに賑わいの地へ変化していく。明治時代に入ってからは寄席のある商店街と花街が形成され、関東大震災で大きな被害がなかったことも幸いして、戦前まで「山の手銀座」とも呼ばれるほどの賑わいを見せていた。

明治後期~大正期の神楽坂の街並み
明治後期~大正期の神楽坂の街並み
神楽坂下交差点から神楽坂を望む写真
神楽坂下交差点から神楽坂を望む写真

街中に国家の歴史を垣間見る

明治維新によって、武家屋敷の大半は政府機関が接収し、一部は軍用地とされて多くの軍用施設や学校、病院などの大規模公共施設が造られた。防衛省や警視庁などの庁舎はこの頃の歴史を受け継いでいる。防衛省市ヶ谷駐屯地にある「市ヶ谷記念館」は、かつて「陸軍士官学校」の本部として使われていた庁舎の一部を移築・保存したもの。一般の人も見学できる大講堂などに、市谷加賀町・神楽坂エリアの歴史の片鱗を見ることができる。

「防衛省」
「防衛省」
「市ヶ谷記念館」
「市ヶ谷記念館」

『遠野物語』と『金色夜叉』の生まれた街

市谷加賀町エリアは、『遠野物語』を世に出した日本民俗学の祖、柳田國男が、民俗学を究めていた20年ほどを過ごした地でもある。市谷加賀町二丁目から外苑東通りへと下る坂「銀杏坂通り」の途中には「柳田國男旧居跡」が今も残り、柳田の功績を称えている。柳田はこの地で、初期三部作と呼ばれる『後狩詞記』、『石神問答』、『遠野物語』を著した。

神楽坂周辺は柳田のほかにも、尾崎紅葉や文豪・夏目漱石、尾崎に師事した泉鏡花、与謝野晶子など、近代文学の祖とされる文人をはじめ文人が多く住んでいた。尾崎紅葉は25歳のときに、神楽坂に隣接した牛込区(現・新宿区)横寺町、現在の都営大江戸線「牛込神楽坂」駅近くに移り住み、35歳で没するまでこの地で暮らしていた。尾崎邸は戦災により焼失したが、跡地が史跡として保存されている。

「柳田國男旧居跡」
「柳田國男旧居跡」
「かくれんぼ横丁」
「かくれんぼ横丁」

御霊が舞い、祀られる地

文人墨客が集うところには文化も集まる。江戸時代からの歴史を持ち、花街の名残が見られる市谷加賀町・神楽坂周辺は「和」の文化、日本文化に触れられるスポットも多い。「神楽坂」駅に近い「矢来能楽堂」は、都内にある能楽堂の中では2番目に古い建物で、国の登録有形文化財に指定されている歴史的建造物。現在も古式ゆかしい能・狂言の公演が行われている。能楽堂の近くにある「今日庵 東京道場」と「東京茶道会館」は、茶道の一大流派「裏千家」の本拠地。外濠沿いの「靖国神社」は、明治天皇の意向で、日本の発展に尽くした人物を祀るために建てられた神社。戦災で没した「御霊(みたま)」を慰霊する「みたままつり」は、都心の夏の風物詩。毎年夏は大勢の人が訪れる。

「矢来能楽堂」
「矢来能楽堂」
「東京茶道会館」
「東京茶道会館」

江戸時代の武家屋敷に始まる歴史と、文人墨客を惹きつけた文化の香り漂う市谷加賀町・神楽坂エリア。住宅街の中に歴史的建造物が点在する街は、歩く人を、縁日の賑わいと美しい日本文化が見せてきた景色の中へ連れて行ってくれる。

武家屋敷に始まる歴史と文化の街、市谷加賀町エリアを歩く
所在地:東京都千代田区市谷加賀町 




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