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國學院大學研究開発推進機構 校史・学術資産研究センター 助教 渡邉 卓 先生インタビュー

文教エリアとして成熟した街、常磐松

文教地区に指定され、多くの教育機関が集まる渋谷区東にキャンパスを構える「國學院大學」。1890(明治23)年に創立された歴史ある名門校で、1923(大正12)年5月に飯田橋から現在の場所に移転した。エリアには他にも「青山学院大学」や「実践女子学園」、「広尾中学校」や「広尾高校」などがあり、都心有数のアカデミックな環境となっている。今回は「國學院大學研究開発推進機構校史・学術資産研究センター」で助教を務められている渡邉卓先生に「國學院大學」の歴史や、渋谷の歴史についてお話を聞いた。

渋谷の歴史について教えて下さい。

渋谷の歴史は、25000年前の旧石器時代まで遡ることができます。渋谷川などの川沿いの台地には遺跡が多く存在しています。実は、本学が建っている辺りからも貝塚が出土しており、昔、ここが海の近くで、縄文・弥生時代には集落が形成されていたと言うことが知られています。

渋谷という地名の由来は諸説ありまして、一説には渋谷氏の拠点であったためといものがあります。現在、本学からも近い場所に「金王八幡宮」という神社がございますが、平安時代に渋谷氏の祖が創建したものとされ、もともと「渋谷城」という城がありました。渋谷城は渋谷川を天然のお堀とし、交通の要衝でもあったと言います。つまり、この辺りの中心は昔は金王八幡宮の周辺にありました。

その後、渋谷氏が戦乱の世で北条氏に滅ぼされまして、渋谷城は無くなってしまいますが、八幡宮として現在も残っているのです。金王八幡宮とならんで、渋谷区の古社として著名なのが渋谷氷川神社で、両社は江戸の名所としても知られていました。江戸時代になってからは、丘の上には武家屋敷が建ちますが、それ以外は農地が広がっており渋谷は農村だったのです。現在の渋谷からは考えられないかもしれませんね。

江戸時代から明治になっても、この周辺には比較的多くの自然が残り、廃藩置県後は宮内省の御料地となります。御料地には牧場が広がっていたそうです。

國學院大學渋谷キャンパス
國學院大學渋谷キャンパス
助教・渡邉卓先生
助教・渡邉卓先生
130周年記念3号館
130周年記念3号館
学術メディアセンター
学術メディアセンター
神殿
神殿

現在の場所へ移転した頃について教えてください。

國學院は「皇典講究所」という機関を経営母体として、1890(明治23)年に創立されました。皇典講究所も國學院も、もともとは飯田町(現在の飯田橋3丁目5番地付近)に置かれていました。

1904(明治37)年には専門学校令による認可を得て、その2年後に「私立國學院大學」と改称し、1920(大正9)年に大学令という法律による認可を得て、名実ともに「大学」に昇格しました。ちなみに、この年に認可された大学は、早稲田、慶應、明治、法政、中央、日本、同志社、そして本学の8校でした。それまでは、国立大学しかありませんでしたから、本学は私立大学として最も古い大学の一つとなるわけです。

発展にともない、従来の飯田町校地・校舎では狭くなったことから、拡張ということを念頭に置いて、移転先を探し始めました。実は最初の段階では、新宿御苑や学習院に隣接する目白台なども移転候補地になっていたそうですが、最終的には、渋谷氷川神社裏の常磐松御料地に決まったようです。

そして1923(大正12)年5月に、皇典講究所・國學院大學はこちらに移転してきまして、翌6月より新校地・新校舎での授業が開始されました。現在の「若木タワー」がある場所が、最初の校舎の場所ですね。

しかし、ご存じの通り授業開始の3か月後の9月1日に関東大震災が起こりまして、できたばかりの校舎が被災してしまうという歴史がございます。3階建ての鉄筋コンクリート造りだったのですが、西側の2階と3階が崩壊しました。この時まだ残されていた飯田町校舎も炎上してしまいました。被災した校舎は翌年に復旧するのですが、授業は9月3日から再開したということですから、学問に対する熱意を感じ、驚きます。

若木タワー
若木タワー
國學院大學博物館
國學院大學博物館
渋谷の歴史を語る渡邉先生
渋谷の歴史を語る渡邉先生
130周年記念5号館
130周年記念5号館

いつ頃から、このエリアは文教エリアとなったのでしょうか。

本格的に、文教エリアとしての雰囲気が醸成されたのは昭和、そして戦後の時代のことになります。本学の移転後、1925(大正14)年には「常磐松小学校」ができまして、広尾高校・中学校については戦後、1945(昭和20)年と1947(昭和22)年にそれぞれ開校しました。1948(昭和23)年には「聖心女子大学」も久邇宮(くにのみや)邸の跡にできまして、文教地区が形作られていきました。

ちなみに、このあたりは昭和期には「若木町」と「常磐松町」と呼ばれていました。本学に18階建ての「若木タワー」と建物がありますが、この名称は「若木町」に由来するものです。

常磐松の地名については、かつてここに「常磐松」という大きな松があって、そこから地名を取ったそうですが、「皿だと割れて縁起が悪い」ということから、のちに表記が変わって、「常磐松」になったということです。ただしその名前も、昭和40年代に若木の地名とともに消えてしまいました。

ですので、若木と常磐松という地名は國學院の歴史の中でも大事にされていまして、建物や発行物に若木と付けたり、文化祭も「若木祭」となっていますし、この建物の1階には常磐松ホールというのがあります。

大学の周辺環境はいかがですか。

東京23区にはいろいろな大学が集まっていて、大抵は「学生街」と呼ばれるような街を持っているかと思いますが、國學院にはそういったものが無いんですね。ですから学生さんについても、華々しい学生街を持っている大学の学生さんと比べると、落ち着いているかと思います。日本文化を教えるという大学ですので、校風もあるかとは思います。

地方から出てくる学生さんからは「渋谷だと思って出て来たら渋谷じゃなかった」という声もありますが、勉強は静かなところでやって、でも、それ以外の時間は若者らしい場所にも出やすいということで、大学の立地としては非常に恵まれた地だと思っています。

環境としても、都心にありながら非常に落ち着いた雰囲気があって、素晴らしいと思います。美術館や博物館など、文化や歴史に触れられる施設が多いのも良いですね。本学には「國學院大學博物館」がありますし、徒歩で行ける範囲に「山種美術館」や「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」がありますし、本学の隣には国学者の塙保己一の史料館(温故会館)もあります。

そういった意味でも、歴史文化に触れる機会も多くありますし、渋谷区の中でも文教の色が濃厚な、少し特殊な地域ではないかな、と思います。

都心にありながら落ち着いた環境で学べる
都心にありながら落ち着いた環境で学べる
「若木と常磐松という地名は國學院の歴史の中でも大事にされています」
「若木と常磐松という地名は國學院の歴史の中でも大事にされています」
「どのような“新しい渋谷”ができていくのか楽しみ」と語る渡邉先生
「どのような“新しい渋谷”ができていくのか楽しみ」と語る渡邉先生
周辺は落ち着いた環境
周辺は落ち着いた環境
「渋谷の一員として、さらなる街の発展に貢献していきたい」
「渋谷の一員として、さらなる街の発展に貢献していきたい」

渋谷東の再開発には、どのようなことを期待していますか。

文化と学問をつなげる際には、客観的に街としての渋谷東地区を見ていかなければならないと思いますので、古い時代から現代へとつながる、そういった歴史の連続性の中に、文教エリアとしての街の良さもしっかり残し発展する“新しい渋谷”を、個人的には期待しています。どのような“新しい渋谷”ができていくのか、楽しみですね。本学も、渋谷の一員として、そして知の拠点としての役割を果たすためにも、さらなる街の発展のために貢献していきたいと思います。

文教エリアとして成熟した街、常磐松
所在地:東京都渋谷区東4-10-28 
http://www.kokugakuin.ac.jp/




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