日本料理 恵の本

その昔、川崎の大師地区のあたりは、良質の海産物が獲れる豊穣の海辺であった。多摩川や鶴見川の水と東京湾の海水が混じり合い、波の静かで塩分の少ない水「汽水」で育った大師近辺の魚介類は身がやわらかく、たいそう滋味あるものと評判になっていった。中でもハマグリは旨味といい、粒の大きさといい、好んで食べられたもののひとつ。時は江戸期、今の東京である江戸から日帰りで旅することのできる「大師詣で」で人気のあった川崎大師近辺では、ハマグリを味噌仕立てにした「蛤(はま)なべ」が名物となり、参詣客たちの大きな楽しみとなっていた。太陽が昇るころに日本橋を発ち、六郷から渡し船で大師までやってきてお大師さまに手を合わせたあと、この蛤なべで一献傾ける風景は、活気があり、また粋なものだった。

日本料理 恵の本
日本料理 恵の本

時を経て現在、大師の浜は埋め立てられ、漁師たちもほとんど姿を消したが、今もこの時代を彷彿とさせるハマグリを使った蛤なべを出す店がある。川崎大師の表参道に居を構える「日本料理 恵の本」がその唯一の店だ。4代将軍・家綱の治世、大師詣でが盛んとなった時代に、茶店のようなものを出したのがことの起こり。以後、約340年もの間、のれんと蛤なべの味を脈々と守り続けている。

現在、恵の本で使っているハマグリは、金沢八景あたりまでのもの。「そこから先は水中の塩分が勝ってしまい、江戸前とは言えなくなるのよね」とシャキシャキ説明してくれるのは、創業から9代目となる女将さん。まさにこのあたりの海を知り尽くした、納得できる言葉だ。大粒のハマグリが入った昔ながらの蛤なべは、「大幅な値上げもせず、頑張っています」という、1人前3,500円。だが、当然のことながら希少価値が高いだけに、この蛤なべは予約制。必須のお約束を怠ってしまった者の口には、蛤なべは当然入らない。

しかしながら、恵の本には、この落胆を一気に昇華させるメニューがほかにもまだまだある。中でも「江戸前天ぷら盛り合わせ」は、お大師さまに詣でるなら一度は食べてみたい、土地の味だ。タネをザッと挙げてみると、メゴチ、キス、ハゼ、アナゴ。あとに続くのは、ナスやカボチャ、シシトウなどの野菜たち。そうめんの天ぷらが幸せを招く熊手のように細工されているところが心憎い。これで値段が1,800円というから仰天だ。都内で江戸前の魚を使った天丼を見たことがあるが、魚はこれより数が少なくて小ぶり。それでいて値段は倍近くしていた。

一方、恵の本の天ぷらは身がふっくらしていて、そのくせしっぽまで食べられるほど外側はカラッと揚がっている。そして、白身魚なのに脂もしっかり感じられる。つまり、火の通し具合が絶妙なのだ。

日本料理 恵の本
日本料理 恵の本

あまりの感動にその旨を伝えると、「そうよ、うちは天ぷらの衣も油も良いものを使っていて自慢できるけど、板(前)さんの腕も自慢なの」と胸を張る女将さん。地の物をよく知る女将さんと、魚の扱い方をよく知る板前さん。この最強のタッグが、江戸前のおいしいものを今も伝え続られ強みなのだろう。

日本料理 恵の本
日本料理 恵の本

すっかり気を良くし、続いて、これまた江戸前の「穴子すし」を注文。金沢八景沖・小柴漁場あたりで獲れたものを生きたまま毎日仕入れて作る、正真正銘・江戸前のアナゴを使った寿司だ。生きたまま割くため、身が柔らかい。ホコホコに蒸し上がったアナゴを口にすると、その瞬間、まるで計算し尽くされているかのように身がほぐれ、風味がいっぱいに広がっていく。上に塗られたツメ(タレ)は酒の味わいがかすかに残る、通人が好みそうな舌触り。ウナギにも負けない味わい深さは脱帽ものだ。

日本料理 恵の本
日本料理 恵の本

「アナゴをめくって、裏を見てみて」と女将さんが身をひっくり返すと、表の白さとは一転し、黒い薄皮が現れる。「これは生きたままのアナゴを使っている証拠なの。そうでなければ、ここはこんなに黒くならないから」そういえば、安いアナゴの調理品はこんなに黒くはなかった。なるほど、新鮮な魚というのはこうしたところにも違いが出てくるものなのか。

日本料理 恵の本
日本料理 恵の本

希少価値の高さが味の良さを凌駕するイメージがあり、江戸前の魚というものは小さくて薄いものが主流でも当たり前というか、しょうがないように思っていた。しかし、今回の恵の本の料理は、いずれもこの間違った認識を改めさせるに十分な、最高のものだった。おいしく、そして、とても勉強になったひとときだった、としみじみ思っていると、おかみさんは「どう? お腹いっぱいになった?」と、あくまでも気さく。川崎で最も古い料理店だというのに、100名もの客を収容できる間を筆頭に数々の広間を持つ一流の料亭だというのに、どこまでも“門前町の食べ物屋”的な気軽さが、客をホッとさせているのだろう。昔から続く“まっとうな”江戸前料理を出し続けている恵の本。この先もずっと、この店で川崎の浜の料理が伝えられていくことを願わずにはいられない。

日本料理 恵の本
所在地:神奈川県川崎市川崎区大師本町9-12 
電話番号:044-288-2294
営業時間:平日 11:00~21:00、日祭日 11:00~19:00
定休日:木曜



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