日本橋の地で、名品を後世に伝える「橋渡し」を続ける/海老屋美術店 9代目当主 三宅正洋さん
近年、急速に新ビルへの建て替えが進んでいる日本橋室町エリア。その一角でひときわ目立つ浮世絵の壁画を擁したビルが、1階に骨董商「海老屋美術店」が入る「海老屋ビル」だ。
この店とビルの主は、この地で明治初期から店を営む「海老屋」の9代目当主、三宅正洋(まさひろ)さん。正洋さんは生まれも育ちもここ日本橋で、大阪に出た数年間以外は、ここに暮らしているのだという。
暮らしも仕事も日本橋。生粋の「日本橋っ子」から見て、昨今の日本橋界隈の変化はどのように映っているのだろうか。商売や骨董に対する思い、日本橋に対する思いを聞いてみた。
――まずは、「海老屋美術店」の歴史について教えてください。
店の発祥は京都でして、延宝元年、1673年の創業と聞いていますけれども、実は、京都で最初に何をやっていたかは、わからないんです。お世話になったお寺さんが御所とのつながりがあるところだったので、そのつてで、御所の小間使いのような仕事から始めたんじゃないかと言われています。明治に近いころになると、御所に蒔絵、家具、調度品といったものを誂(あつら)えるお店になっていたみたいですね。
東京に来たのは明治維新の頃、御所が東京に移ったのに合わせて出てきました。それが日本橋とのご縁の始まりです。最初はもう少し江戸通り寄りのところに店があったのですが、関東大震災で全部焼失してしまったので、祖父の代に新しい店を建て直して移ってきたそうです。
古物を扱うようになったのも、海老屋の屋号を使うようになったのも祖父の時代でして、明治の終わり頃までは、御所からの注文を受けて、蒔絵や金の製品を(提携していた職人に)作らせて納めるという商売をしていたようです。いつからか古美術も扱い始めまして、いまは御所の仕事は名残程度で、ほとんど古物商としてやっています。
――お店ではどのような品を扱っていらっしゃるのでしょうか?
やはり、ここは日本橋という歴史のある土地ですから、「日本橋にゆかりのある品」をなるべく扱うようにしています。ただ、なかなかそういった品は少ないですから、近世絵画、江戸から明治にかけての面白い書画類も扱っています。全体的に、「ちょっと変わったもの」が多いですかね。お客さんが「あ、こんなのもあるのか」って驚いてくださるようなものを探してご紹介するようにしています。「自分が自信をもって紹介できるもの」という点は大事にしていますね。骨董屋ってそれぞれの主人のカラーが反映してくるものだと思うので。
敢えて得意分野を挙げるとすれば、江戸時代の日本のガラス関係ですね。江戸切子、薩摩切子、ビードロといったものです。実はガラスって日本橋と「ご縁」が深くって。ギヤマン(舶来のガラス細工製品)の影響を受けて日本のガラスが生まれたわけですけれども、その時に日本橋の馬喰町が、江戸のガラス専門問屋の発祥の地になったんです。それを知ってからこれも日本橋との「ご縁」だと思って、力を入れるようになりました。
――どれも一点ものの貴重な商品ばかりですね。どうやって仕入れていらっしゃるのでしょうか?
基本的にはいくつかの古物市場に行って、そこで仕入れています。それが全体の7割くらいですかね。あとは、業者同士で直接売り買いしたり、お客さんから買い取ったりという具合です。今は市場がすごく大きいので、そこに行けば、いろんなものが仕入れられるんですよ。
――お店にはどのようなお客さんが来られますか?
実際に買ってくださるのは常連さんが多いですけれども、場所柄、通りすがりの方が寄ってくださることも多いですね。最近はホテルに泊まっている海外の方も増えました。ただ、店売りは比較的少なくって、自分が(常連の)お客さんを狙って仕入れたものを(お客さんの自宅へ)持って行ったり、逆にこっちに来ていただいたり、ということが多いです。みなさん、それぞれに好きな分野をお持ちですので、その方のニーズに合ったものが入ればその都度ご紹介するという感じです。店は「情報発信地」みたいなものですね。
――三宅さんが、骨董品を通して伝えたいことは何でしょうか?
やっぱり、自分よりもずっと年上の品が多いですし、壊れたり焼けたりしたら無くなってしまうものなので、「末永く世に残っていってほしい」という思いは強いですね。それに骨董品って、それぞれにいろんな「物語」があるんです。だから、そういったこともちゃんと伝えてた上で納得していただいて、「欲しい」と言ってもらえれば、それが「ご縁」だと思っています。同時にぜひ「使ってもらいたい」ということもお伝えしていますね。壊れてしまったら無くなってしまうものなので、なかなか、使いにくいとは思いますけれど、買って終わりではなくて眺めて楽しむのもひとつの「使い方」ですよね(笑)。
ひとつひとつみんな違うものですから、どれも愛おしいんですけれども、それじゃ商売にならないですからね。店を継ぐ時には父から「コレクターになるならこの商売はやるな」と厳しく言われましたよ。私どもは「橋渡し」の役ですのでね。骨董屋というのは、「ご縁」を待ちながら腰を据えてやらないといけない商売なので、辛抱も必要なんですけれども、「いいもの」っていうのは必ず「ご縁」ができていくんです。
――三宅さんはこの地の生まれ育ちということですが、昨今の日本橋地域の変化について、どのようにお感じですか?
私はここが実家なので、日本橋が故郷なんですが、小学校低学年くらいまでは、まさに映画『三丁目の夕日』さながらの街でしたね。今ホテルがあるところ(現・三井タワー)にはL字型に細い砂利道の路地があって、ミシン屋とか、足袋屋とか、蕎麦屋なんかがありましたし、千疋屋さん、村田眼鏡さんも昔はその辺りにありました。そういう路地が僕らの遊び場になっていて、小学校の先輩後輩がみんなそこに住んでいましたから、放課後はよくそこに集まって遊んでいました。いたずらをしすぎるとおじいちゃんに怒られるし、よくある下町の雰囲気でしたよ。中央通りには路面電車も走っていて、のどかだけれども活気のある町でしたね。
変わってきたのは、昭和40年代の後半からですかね。小学校高学年の頃だったんですけれども、同級生がどんどん越境(通学)になってしまったんです。土地を売って、市川辺りに引っ越していく友達が多かったですね。平成に入る前ぐらいには、銀行色の強い、完全なオフィス街になっていました。土日なんかは人も歩いていなくて、ガラガラでしたよ。同級生もほとんど周りに残っていなかったですね。
それが最近の開発で、また様子がガラッと変わってきて。お店が増えてきたので、特に土日の人の入りが変わりました。にぎやかになりましたね。ただその反面、この開発で最後に残っていた同級生もいなくなって、もう完璧に「地元の人」はいなくなってしまいましたけれど…。
――新しいお店や企業の方と、人間同士の「ご縁」は生まれていますか?
この辺りは地価が高いので、個人商店というのは少なくて、会社(が経営する店舗)が多いので、まだまだそういったつながりは少ないかもしれません。でも、これからじっくり育っていけばいいんじゃないかな、とも思っています。新しいお店の人たち同士がつながって、地元をみんなの力で盛り上げていければ、もっと面白い街になっていくと思います。
今でさえ、うちから何か声を掛ける時には、相手方が会社の人だったとしてもちゃんと答えてくださる方が多いですから、そういった輪がどんどん広がっていけばいいな、と思っています。やっぱり、みんな同じ人間ですからね。あいさつひとつで変わっていくものもあるし、じっくりと、(人間関係が)育っていってくれれば嬉しいですね。
――最後に、三宅さんおすすめの、日本橋の見どころスポットを教えてください!
まずは「日本橋」を見ていただきたいですね。あそこの欄干彫刻は見事ですよ。もう間違いなく、明治の鋳物の三光です。プロデューサーは津田信夫(しのぶ)っていう当時の工芸界の重鎮だし、彫刻を手掛けたのは、渡辺長男(おさお)という素晴らしい彫刻家で、その義理のお父さんの岡崎雪聲(せっせい)がそれを鋳物にしたというもので、このトリオでやった作品ですからね、それはもう、明治を代表する名品ですよ。それが手に触れられる距離にあるんですから。私なんかは、あれの前に1日いても飽きませんわ。
あとは、さっき言ったように、日本橋はオランダ貿易との関係が深いところなので、そういった場所を見つけてみるのもいいでしょうね。うちのすぐ近くの交差点(室町三丁目交差点)の角には、江戸時代に「長崎屋」っていう薬種問屋があって、そこはオランダの商館長とか船長の定宿(じょうやど)だったそうなんです。当時はそこだけ、ピアノが置いてあったり、洋楽を演奏していたり、洋食やワインをふるまっていたりと、「異国の場所」だったみたいで、平賀源内とか佐久間象山も通っていたらしいですよ。
あと、東京駅前の「八重洲」っていう地名も、昔は「やよす」っていう呼び名だったらしいんですが、それも「ヤン・ヨーステン」っていうオランダの渡来人の名前に由来しているという話だし、このへんを散歩すると、江戸から明治にかけてのいろんな痕跡が発見できて、すごく面白いと思いますよ。
今回お話を聞いた人:海老屋美術店店主
※記事内容は2019(令和元)年10月時点の情報です。
日本橋の地で、名品を後世に伝える「橋渡し」を続ける/海老屋美術店 9代目当主 三宅正洋さん
所在地:東京都中央区日本橋室町 3-2-18
電話番号:03-3241-6543
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